なぜ高い場所で「飛び降りたい」と感じるのか - 「虚空の呼び声」の正体
「飛び降りたい」と思ったことはありますか
展望台の柵から下を覗き込んだとき。ビルの屋上で端に立ったとき。橋の欄干から川を見下ろしたとき。ふと、「ここから飛び降りたらどうなるだろう」という考えが頭をよぎったことはないでしょうか。
この感覚を経験したことがある人は、自分がおかしいのではないかと不安になるかもしれません。しかし安心してください。この現象は極めて一般的で、フランス語で「虚空の呼び声 (l'appel du vide)」と呼ばれる、よく知られた心理現象です。
研究で分かった「普通の人の普通の反応」
フロリダ州立大学の心理学者ジェニファー・ヘイムズらは、431 人の大学生を対象にこの現象を調査しました。結果、約 50% の参加者が「高い場所で飛び降りたいという衝動を経験したことがある」と回答しました。
重要なのは、この衝動を経験した人の大多数が、自殺願望を持っていなかったことです。むしろ、不安感受性が高い (危険に敏感な) 人ほど、この現象を経験しやすいという結果が出ました。つまり、「飛び降りたい」と感じるのは死にたいからではなく、むしろ「死にたくない」からこそ起きる反応なのです。 (心理学に関する書籍で詳しく学べます)
脳の安全システムの「誤解」
ヘイムズらの仮説はこうです。高い場所に立つと、脳の生存本能が「危険! 後ろに下がれ!」という信号を発します。あなたは反射的に柵から離れます。ここまでは正常な安全システムの動作です。
問題は、その直後に起きます。意識的な思考 (前頭前皮質) が「なぜ自分は後ろに下がったのか」を分析しようとします。実際の理由は「生存本能が危険信号を出したから」ですが、意識はその無意識の信号を直接認識できません。そこで脳は、後ろに下がった理由を「飛び降りたいという衝動があったからだ」と誤って解釈してしまうのです。
つまり、「飛び降りたい」という衝動は実際には存在しません。存在するのは「危険から離れろ」という安全信号だけです。しかし意識がその信号を誤解し、「飛び降りたかったのだ」という物語を後付けで作り上げてしまう。これが「虚空の呼び声」の正体です。
似たような現象は他にもある
この「不適切な衝動が一瞬頭をよぎる」現象は、高い場所に限りません。電車のホームで「線路に飛び込んだらどうなるだろう」、包丁を持っているときに「これで刺したらどうなるだろう」、赤ちゃんを抱いているときに「落としたらどうなるだろう」。
これらは「侵入思考 (intrusive thoughts)」と呼ばれ、ほぼすべての人が経験する正常な心理現象です。脳は常に「もしも」のシミュレーションを行っており、その中には不快なシナリオも含まれます。重要なのは、その思考が浮かんだことではなく、それを実行しないことです。思考が浮かぶこと自体は、脳が正常に機能している証拠です。 (メンタルヘルスに関する書籍も参考になります)
まとめ
高い場所で「飛び降りたい」と感じるのは、脳の安全システムが「危険から離れろ」という信号を出し、意識がその信号を「飛び降りたい衝動があった」と誤解した結果です。この現象は約半数の人が経験しており、自殺願望とは無関係です。むしろ、危険に敏感な人ほど経験しやすい。次に高い場所でこの感覚を覚えたら、「ああ、脳の安全システムが働いているな」と思ってください。あなたの脳は、あなたを守ろうとしているだけです。